昭和40年02月19日 朝の御理解
昨日、一昨日17日の日でございます、親教会の月次祭の後が総代会でございました。岸という饅頭やさんのお宅で御座いましたが、29名ですか総代さんがたみんな集まって、熱心に信心の総代は総代としての共励があります。その中にです、親先生がこう言う様なお話をなさいました。教会には教会の賦課金というのがある。税金のようなものですね、教務所とかなんかの立ち行きは、やっぱそういう賦課金でなされておるらしゅうございます。それがまあ分かりやすくいうと、一口が130円になってる。
それを100口もおかげ頂いておられる方もあれば、50口の方もあるその一口の130円の賦課金が治められないというお家もある教会で。一年にですよ本当にもう内輪に入って見ると人間は汚い者ですわい。もう信者も教師もなかもう自分方は家族が多いから、お参りが少ないからというてはその一口でも減らそうとする。どこの会でも。久留米辺りの教会は、みな御ヒレイを頂いておられますから、それ相当の賦課金が納められておるらしいのですけれども。
私はそう言う様な話をですね、聞かせて頂いておりましたらね、なにか身の内がゾ-ッする寒気を感じました。これで良いだろうか、私それ以来という訳でもないのですけれども、本当に教団の発展を祈らせて頂いておる者としてですたい、本当にこれで良いだろうかと絞るならば、九州の道の上にもです、おかげを頂かなければならないなぁと。桂先生が本当にこういう有難い、この金光教という名教をです、世界中に輝やかさなきゃおかんと言う様な御信心がです、どこかいってしまっておる。
間違いなしにお役に立つ、いわば教会の賦課金がです、出来るだけ治めまい治めまいとする人達が多くなった教会、そういう現行なんというその貧しい事になって来た事だろうかと言う事。もう本当に私最近思います。本当に教団の新教主様を頂いてからこの方それを特に思います。本当に教団の発展を祈らにゃおられません。又は九州の道の発展を祈らなければおられません。
隣接教会の本当に繁盛を願わなければおられません。お道の信心によって一人でも多くの人がです、取次助けられていくことの為にです、教会にそうした生き生きとした活動がなされなければならないという時にあたってです。130円の賦課金が治められないと言ったり、いや家の方が多すぎると言うて、それを少なくしようとする先生方が中にあるという話を聞かせて頂きましてね、愈々おかげを頂かねばならんなぁと言う事なんです。ね、所謂私が身の内に何かそういうものを、所謂寒心にたえない。
いわばお話しなのです。寒心寒い心にたえない。これを例えば私がですなら教団の事を。九州の道の上の事を祈る思いが切であればある程、私その話を聞いて、こりゃおかげを受けなければいけないなと、生き生きとした働きを頂かなければならないと言う事を感じる。誰でもただ口だけならば、世界中の真の平和も世界総氏子の助かり、教団の事だって教会の事だって、矢張り言葉の上においてならば、どんなにでも出来ます。けれどもそれがです、切実に神様にかよう祈りでなけらにゃいけんのですから。
お互いの信心が、愈々垢抜けして太く大きく信心がならなければです、私はそうした願いになってこない。私は自分で感じました。その話を聞かせて頂いてです、本当に心に寒いようなものを感じた時に、ははぁ私が教団の事を祈っておると言う事はです、これはやや本当の本当の事だなぁと感じました。その話を聞いて愈々おかげを頂かなければいけん。いよいよ生きたヒレイをめいめいの上に頂かなければいけない。これはぐずぐずしてはおれない。まぁそんなやっぱ気持ちが致します。
これがもしそういう祈りをもっていなかったとしたら、只聞き流すだけでしょう、そげなこつですが言うだけじゃないでしょうかね。これが私の信心のいうなら本調子です。少し調子を変えてみます。二上りになるやら三下りになるやら分かりません。私の青年時代にこう言う様な久留米にわかなんです。見た事あります。2人でするニワカなんです。花道からこう出て来る。一人のもうそのちんばちんばで出て来る訳なんです。もうこちらの方から一人出て来ております。
「○○さんじゃないか」と「お久しゅう」という訳なんですね「どうしたのかその腰まいは」もう片一方の方へ聞きました。「それがお前この頃あんまりよか所ばっかり行きよったもんじゃけ、よか病気もろうてから、○○病院に行きよるとこたい」ち言う様な話しなんです。「おう言わんこっちゃなかろうがい、私がもうてぇげぇて止めときんさいと言うばってん、お前が行くもんじゃけ、まぁ友達のよしみで私がその病状を見てやろう」という訳なんです。
それで舞台の真ん中に出て参ります。丁度その雨の降っておる所の設定なんです。ですから、傘をさしております。「そやけんちいうて、しょうもない所でお前見せる訳にゃいけんじゃないか」「まぁよかよか、その傘ばこう下さい》って言うわけなんです。そして傘を広げて傘を敷いて傘の上にこう横寝を致します。そしてからこうやってからよかとこ出して見る訳なんですよ。
「こりゃたまがった」という訳なんですよね。「こりゃ愈々もういかんばい、こりゃもう傘の上に横に落ちとる」傘の上に横に落ちとるというわけなんです。だからもうこりゃとても荒修業しなければ駄目だというニワカなんです。そこで落としニワカなんです。ね、傘の上皆さんはお分かりになるでしょう。傘の上に横寝ち所がなんですよ、昨夕皆さんが帰りましてからです。
後のお掃除が済んでから20人余り残っておりましてから、まぁ一生懸命信心話しさせて頂いておるうちに、どうした話しからだったでしょうか、ああそうそう久冨先生が、その癌の手術の事をお話になっておられました。その手術でもやはり麻酔をかけずに手術をした方が一番治りが早いと言う話しなんです。その中からでした、本当になぁ昔はね兵隊の時にはです、この横のわずらいはばさらかおった。
でもそげんとは絶対麻酔をかけん、御前よかごとばっかりしとるけんでこういう目に合うのたいと言うてから、もうそれこそガリガリのごと切ってのかすのらしいですね。そりゃひどい事だったらしいけど、治りは矢張り早い訳なんです。そんな話になったんです。古賀先生が言う事です「大体、横寝ちゃどげな病気ですか」と、まぁこの人は30にもなってまだそれ知らんとかい、というて笑うとです。
そしたら秋永嘉郎さんが言う事にですもん、「僕もその横ねちゅとを子供の時やったことがある」という話なんです。皆んなが大笑い致しました。なにが遠足かなんかに行ってまもりが出来ておりますのですたい。この人もやっぱ、この人と同じぐらいですから30ぐらいですから、はぁ今時の若いもんな横ねいって知らんもんなと大笑い致しました。まぁ知らん事は有難い事です。
そう言う様なですお話をしておったからでしょうか、今朝方私、丁度4時に目が覚めた時にお夢を頂いておったお夢がです、今私が申しました、その『にわか』のお夢を頂いたんですね、『傘を広げてございます。大きな八ツ波の御紋章の付いた傘なんです、それが。それをこう広げてです、あれは私の知った教会の先生が横寝をしておられる所』を頂いたんです。
傘の上にです、もう私は本当にお知らせを頂いてからですね、ああこれじゃおかげは頂けんはずだと。ね、傘というのはここでは安心とこう頂いております。信心しておればいつかどねかなろうと、ね、神様はお蔭下さるじゃろぐらいな事。愈々の時には神様に一生懸命すがるけんと言う様な、信心に腰を掛けるぐらいならまだ良いけれど、そこに横寝をしておいてですたい、勿論ヒレイが立つ筈もなければ、人が助かるはずもないと言う事。成程これじゃ130円の、一年間にですよ。
賦課金が治められないはずだと私思いました。傘の横寝、ね、そこで例えそういう話をですたい、これは教会だけの事ではありません。お互いの銘々の上にも一つ、これを思うてみなけりゃいけません。信心しとればいつかおかげを頂くじゃろうぐらいな事でです、踏ん切りもつけず横寝をしておるような、いわば信心でおかげの頂けるはずはありません。そう云う例えばそれこそにわかの中に私は見ております。花道からねちんがらちんがらして出て来ておる。
歩きが悪い【 】有難いはずのお道がです、有難く歩いてゆかれないならば、その人は横にわずろうとると思わにゃなりません。過去においての悪所通いがです、過去においての巡りがです、いわば跛(ちんば)、跛してやっとかっとして歩いておると言う事を悟らなきゃいけません。ね、そこでです本気でここに一つおかげを頂きましてです、痛うもあろうけれども苦しゅうもあろうけれどもです、私は荒治療が必要の時じゃなかろうかと。痛うも苦しゅうもあろうけれどもです。
本気で治療させて頂いてです、スッキリした歩き方の出来れる、有難いお道をお道として現していく事の出来れる。人が100口なら、私は1000口でも治めさせて頂きたいと願えるくらいな、私は信心を頂かなきゃなりません。1000口だって幾らになりますか、1000口だって13万円ですよ。今時の金ね私は思います、それがお道の為になる事ならば、お役に立つ事ならば後退りしちゃなりません。桂先生はそれを不退転の御信心をもって、こと神様の事に限っては前には進んでも後には引かん。
そういう御精神のもとに、ああした素晴らしい御修行も御信心もお出来になられ、ああした大徳をお頂きになられ、又残しておいてられた訳なのです。ね、私共がです只信心のいうなら、いよいよの時は親先生にお願いすりゃと言った様なですね。そういう安心そういうつまらない安心に腰かけたり、横寝をしておるような事ではです、いつまでたっても、ね、楽しいような有難い道歩きは出来はしません。道歩きというのが困難であるならば、今更難儀を感ずるならばです。
今こそ横寝を患ろうておる時であり、しかもその上その傘を横寝と言う様なですたい、ね、状態の時であると悟らして頂いて、一つ荒修行させて頂くつもりで。荒修行の一つでもさせて頂いて、生きた神様を現していく事に、おかげを頂いてゆく事に、お徳を受けていく事にです、精進しなければいけんのじゃないかと思います。今朝の御理解は、朝の御理解に、ま、いうならふにつかわしいです、まっ私の信心の本調子もでりゃ二上りでも三下りもでたような感じでしたけれども。
その中からです皆さん、どうか一つ私が本当に皆さんに分かって頂きたい所。皆さんだけの助かりじゃいけません。家族だけの助かりじゃいけません。本当にお互いがです教団愛に燃えて、世の中が本当にお道の信心によって清められ、明るうなりおかげを頂いてゆけれる世界真の平和を祈れれるようなです、内容信心が高度なものになってゆかねばならん。只自分の事だけで一杯、自分の家の事で一杯。ね、それではですいつまでも信心が成長いたしません、ね。
金光教がある日宗教新聞の記者に一問一答なさった時に。「金光様貴方は大体どう言う様な事を御祈念なさいますか」というて質問した。金光様は仰った。「世界真の平和を祈ります。世界総氏子の総助かりを願います」と仰った。ね、「そりゃ余りにも漠然として、余りにもですから、もう少し具体的に御説明願えんでしょうか」と申し上げた。金光様は、その場でお答えになった。
「はい大は小をかなえますから」とおっしゃったそうです。ね、けれどもこのいくら大きい大の事でも空のようなものではいけないと言う事です。只口で言う言わんではいけない。心の底から世界の真の平和を祈らなければおられない。私どもはもう最近それを本当に祈らずにはおられません。大変な世界の情勢を新聞やテレビなんかで見せて頂きましたり、読ませて頂きましたりしてです、もう本当に実感いたします。世界平和を祈らなきゃおられません。
そして只今親先生から聞かせて頂きましてです、いわば寒心にたえない、そういうお話を聞いてです、教団が愈々私の心の中に燃えるものを感じるのでございます。それならば、お道の事だけを祈っとるから世界真の平和の事ばっかり祈っとるから、自分の事はお留守になっとるじゃないかと言う事は絶対ありません。その中に私があるので御座いますから、おかげを頂かにゃいけません。